
京都市立芸術大学作品展学内展より 谷中佑輔「野菜は風景をひっくりかえす」
以前、中学校からの帰り道、ひたすら道行くひとに大根を配っているおじさんに遭遇したことがある。
たしか自転車の荷台にとりつけた大きなカゴに満載されていたと記憶しているが、大量にあった大根の山を中学生であろうと通りがかりのおばちゃんであろうと手当たり次第に渡していた。
私も友人もそれを受け取った。
私は中学生ながら、一応、なぜタダで貰えるのか尋ねた。
おじさんいわく、作りすぎたが捨てるのも勿体無いので、おうちで食べてくれたら。とのことだった。
それが、売り物にならずに捨てられる運命だった原因が値崩れなのか、あるいは型崩れだったのか現在となっては定かではないが、いずれにしても、親がスーパーなどで買っているものとなんら遜色のない大根の不意の獲得に、親の喜ぶ顔を想像しながら再び家路を歩き始めた。
その矢先だった。
一緒に歩いていた友人が、いや、友人だけではない、他にも大根を受け取った中学生が電信柱などにその大根を叩きつけ始めた。
パコンッ と、独特の響きとともに夕暮れのアスファルトの上にみずみずしい真っ白な円柱状のものが転がった。
あっというまに、その通学路には電信柱の他にガードレールや、鋭利なものなどによる、さまざまな方法によって破壊された大根が散乱する風景に変わった。
私がその友人にその行為の制止を求めたかどうか、現在の私の記憶にはないが、あのおじさんがこの風景を見たらどれだけ悲しい思いをするだろうという心配とともに、アスファルト上に散乱した大根に対する強烈な違和感がいまだに脳裏に焼きついている。
道路上に置かれた鉢植えにミニトマトが赤く育っていても何も違和感を感じないのに、たとえば、そのトマトの実がぽつんと道路上に置かれている風景を想像すれば、途端に状況が変わる。私の場合は、だが、不快感さえ催すような気がする。
私は潔癖症ではないが、道路上に唾を吐いたり、便器に唾を吐いたりする人を見ると不快感を感じる。その理由としては道路や便器が、自分の唾の落下の軌跡を通じて自分の口腔に繋がったように想像してしまうからだ。
おそらく、この作品に最大のインパクトを与えている、石と野菜のコントラストはこの道路上における野菜や、道路に吐く唾をイメージの媒介として感じる違和感と同種のものだと想像できる。
なぜなら、そもそも野菜というものがわれわれの味覚に好まれるように特別に改良された、いわば剥き出しにその味覚の内容を呈する存在であり、なおさら収穫された野菜は、枝から切り離された時点からそれ自体がわれわれの口に入ることを約束された存在として成立しているからであり、すなわち、野菜というものがそれ単体ですでにわれわれの口腔に、そして胃袋にもっとも近い存在でありながら、それが道路上に打ち棄てられていたり、この作品のように硬い岩石に嵌っていることによって、それらを噛み締める刹那にその不可能性を突きつけられるという、まかり間違って地面に歯を立ててしまいそうな、文字通りの歯痒さを感じさせるのだった。
この作品は、おそらく野菜というものを「野菜」という字面とは裏腹に、スーパーに並ぶ食料として純化していくことによって、その存在が目的化され、われわれの意識の中では単体の植物の種として存在できなくなっていることと、そして目的化された存在の危うさ自体を暗喩している。
この作品の石に穿たれた穴から、しなびたトマトが地面にポトリと落ちるのを見ていた時に、本当に何か風景がひっくりかえりそうに想像できたのは、その、われわれが既定のものであるかのように思い込んでいる目的を追うあまり、いつでもクルリとその足元をすくわれるように思えたからかもしれない。